40周年記念企画

05

オリゼメート神話の始まり

元 宮城大学 食産業学部 教授(農学博士)

本藏 良三

昭和49年、オリゼメート粒剤が農薬登録された年、宮城県ではいもち病が発生予察事業始まって以来の大発生。梅雨が明けず、じめじめとした雨が降り続いていた。当時大学院博士課程に在籍していた私のそばで、三沢正生教授(当時)と山中達助教授(当時)が外を見ながら「今年はいもちが出るね」と話されていたのを今も鮮明に思い出す。
昭和53年4月、宮城県黒川病害虫防除所に着任。所長は同じ室内にある大和農業改良普及所長が兼務、専任職員は私一人。ただし、普及所の職員が全面的に支援してくれる。慣れないうちにすぐいもち病がやってきた。例年よりかなり早く、6月下旬には葉いもちが目立ち始め、例年の日程通りに薬剤散布ヘリコプターがやってきた7月3半旬(7月中旬前半)には例年の7月下旬の発生最盛期の様相を呈した。その間、地上防除による補完散布を呼びかけるが、後手に回る。しかし、オリゼメート粒剤を6月中旬ころに散布していた水田ではいもちが認められず、その効果は口コミでも広がり、オリゼ信仰の始まりといっても過言ではなかった。

オリゼ神話

昭和54年、黒川郡以北は例年より著しく早い時期から葉いもちが発生。例年よりも早かった前年よりもさらに早く、6月第3半旬から葉いもちが管内各地で発生してきた。航空防除のヘリコプターは予定日しか来てくれず、オリゼの地上散布を呼びかける。未だいもち対策の知識の乏しい私にとっては、何が何でもオリゼ散布を呼びかけることで事足りた。明治製菓仙台支店の地上および空からの広報もあり、6月中旬から下旬にかけて積極的に本田散布が実施され、初期防除の遅れた水田の多発を目にして、オリゼの実力が知れ渡った年であった。
なお、53年は梅雨明け後に異常高温・多照が続き、稲作史上最高の豊作(作況指数112)となった。54年は梅雨が長引いたが、8月中旬以降は晴天が続き、葉いもち多発生の割には穂いもちの被害が少なく、まずまずの収穫となった。
これらの葉いもちをたたけば穂いもち被害を軽減できるという経験から、それまでは葉いもちよりも穂いもち重視の防除体系であった地域においても、葉いもちの早期防除の重要性が認識されるようになっていった。
昭和55年、6月下旬から低温・多雨が続くも葉いもち少発生。強い冷害により水稲作況指数79。過去の事例からみると、葉いもちが多発する気象であった。少発生におさまったのは前年・前前年の経験から7月初めから始めた航空散布の効果もあるが、6月中旬から例年になく広域一斉に散布されたオリゼメートの効果によるものが大きかったであろう。
オリゼには、他剤で当時問題になりつつあった耐性菌問題はなく、オリゼ神話は確定的なものになっていった。

オリゼメート粒剤本田散布時期

このように、宮城県内ではオリゼメートさえ散布しておけば葉いもちは大丈夫という空気が県内全域に広がったこの3年間であったが、いつしか葉いもち発生後のオリゼ散布は効果がないという風評が広がった。
作用機作からするとそのようなはずはないと思われ、試験場内の気象観測地近くに結露計を設置して毎日のいもち病の感染、その後の病斑出現状況とオリゼの施用日との関係を詳細に検討してみた。その結果、前夜から朝にかけて感染のあった当日またその翌日にオリゼメート粒剤を施用すると、その感染に対して十分に高い防除効果を示すこと、それがすでに病斑が出現した初発期以降の時期であってもオリゼ施用後の感染を抑えることが明らかとなり、本田散布時期の迷いは片付いた。すなわち、予防的に感染時期の前に散布するのが最適であるが、散布が遅れてもその後の感染は抑制することを周知させることができた。

葉いもち発生予察技術向上の研究:「オリゼメート本田散布を発生予察警報で推奨」が目標

昭和54年の葉いもち早期発生とその後の急速な蔓延は当時の想定を超えたものであった。「ササ・コシ神話」のササニシキの本場である宮城県ではいもち病の防除が最も重要なことであり、発生予察会議においても多くの時間をいもち病に充てていた。午前10時にいもち病から始まるが昼休みになってもいもち病が終わらないことがよくあり、県内各地の現況、過去の発生状況、天気予報等から議論が続くが、未だ定量的な予察基準はなく、最後は今後の天候次第ということが続いていた。
ただし、昭和50年代に入り、当時北陸農試の吉野嶺一氏の研究成果、温度・葉面湿潤時間と侵入率(葉表皮へのいもち病菌分生胞子の侵入率)との関係が明らかとなり、それを利用したシミュレーションモデルの開発研究等定量的な発生予察技術が開発されつつあった。当時の秋田県農試の小林次郎氏からは葉いもち広域的初発期等の理論と実地調査法を秋田県農試圃場において教わり、福島県農試の橋本晃氏からは結露計の読み取り方と葉いもちシミュレーションモデルBLASLの理論とコンピュータープログラムについて実物を前に教わり、東北農試の越水幸男氏からはアメダスデータを利用した葉いもち発生予察法を教わった。これらの懇切丁寧にお教えいただいた知識・技術をもとに、宮城県における葉いもちの発生経過の解析から取り組んだ。県内に4か所設置し、随時病害虫防除所から送られてくる結露計のデータでアメダスデータを補完し、現地の発生状況と試験場内の精密な葉いもち発生状況を知ることで、県内平坦地水田の葉いもち発生推移を実用的に利用できるレベルで推測できるようになっていった。
当時、だれの目からも最強・確実に葉いもちを防除できると思われていたオリゼメート粒剤ではあるが、適期一斉散布(6月中旬)を指導するには、遅くても6月15日ころには葉いもち予察情報を出さねばならない。普通の年では、葉いもちを農家の方が見つけ始めるのは7月10日ころ以降であることから、葉いもちが目立ち始めるおよそ1か月前にその発生量を予察すること、これが私たちにとっての目標であった。
もし、昭和54年と同じ状況が今日現れたら、躊躇なく「葉いもち防除にオリゼメート粒剤の一斉散布を励行しましょう」の発生予察警報の6月中の発令が可能であろう。ただ、現在は育苗箱施用に置き換わり、予察の出番がなくなってしまった。

いもち病発生生態に関する最近の2、3の知見

近年研究事例がめっきり減ったいもち病の発生生態について、まだ未解明と思われる課題について少々検討する機会があった。
北日本における越冬伝染源について。本田での伝染源は水田に放置された残り苗あるいは感染苗の移植のいずれにしても、育苗期に感染していたイネ苗と考えられているが、これが最も重要であり、ほとんどがこの経路によるものとして間違いはないと思われる。育苗ハウス内に稲ワラを放置すると容易にいもち病が発生することや本田でも家畜舎のそばで早くから葉いもちが確認されやすいことが経験的に知られており、稲ワラからの伝染も無視はできないと思われる。
仙台市の西部住宅街のなかにある宮城大学食産業学部構内の隔離水田で、いもち病被害ワラをはせ架けにして野ざらし状態で越冬させても翌6月まで生き残り、近くのイネに葉いもちを発生させた。2年連続で同じ結果が確認され、東北地方でも屋外でいもち病菌が越冬できることが確認された。宮城県の冬は雪が少なく乾燥していることが越冬を可能にしていると思われるが、寒さが越冬の制限要素になっているとは思われない。北国であっても育苗施設周辺で、ぶら下げた状態に置かれた稲ワラは注意が必要と思われる。
真性抵抗性を導入したイネ品種の罹病化においては、その抵抗性遺伝子を侵害する新レースの出現が重要となる。真性抵抗性の発現が不十分である穂において、何らかの要因でレースが変異して新レースが出現すると考えられてきた。上述の宮城大学構内の隔離水田で‘とりで1号’をササニシキと並べて栽培中、ササニシキ葉で蔓延していたいもち病菌(レース037)が‘とりで1号’を侵害するように変異したと推定された新レース437菌による病斑が1個‘とりで1号’葉身上に出現し、その後、葉身で蔓延し、多数の穂首いもちを引き起こし、それらをはせ掛けした隔離水田の翌年は新レースで埋まる現状に出くわした。宮城県では予察圃の中央に‘とりで1号’数百株を植えて、いもち病の発生の有無を約20年間観察してきたが、ほぼ毎年ササニシキ等にはいもち病が多発生していたが、‘とりで1号ʼの発生は確認されないでいた。宮城大学隔離圃場における‘とりで1号ʼの発病は発生が早く、最初の1病斑から2次、3次伝染と多数の葉いもち病斑が出現したために見落とさなかったとも考えられるが、この例からすると大面積の圃場では新レースの出現は容易であり、新レース出現当初は見落とされているだけとも思われてくる。
宮城県では、箱施用剤の普及と夏の晴天続きによるものであろうが、昨年を除いてここ数年いもち病の発生が極めて少なく、穂首いもちの採集自体が困難を極める状態であった。この地区にはもういもち病菌はいなくなったと思われるようなところでも、よくよく探し回ると穂首いもちが見つかる。特に止葉の葉節は水滴が留まりやすいようで、葉節の病斑とセットで首いもちが見つかることがしばしばあった。

宮城県における平均的な葉いもち発生経過模式図

PAGE TOP