いもちの素性を知る

第2章 いもち病とはどんな病気か

1.いもち病の語源

古くはいもち病を「稲熱病」と記載した。古い植物病理学書はすべて「稲熱病」であった。これは正に「名は体を現わす」のたとえのとおり、よくその症状を表現している。ご存知のとおり、イネがいもち病にかかると、はじめに暗緑色の円形病斑が出来る。それが次第に拡大するとともに、褐色、だ円形の病斑となり、はげしく侵されれば、病斑がゆ合して大型となり、やがて葉が枯れてくる。このような病状がさらにすすむと、葉山が広くなり、伸長も止まって、株はズリコミ症状となる。その様子はあたかもイネが高熱におかされ、或は熱湯を浴びて、焼けただれたような状態を呈するところから、これを「稲熱病」と表現したのであろう。

ところで「いもち病」の呼び名は、はじめから「いもち」であっただろうか?。このことに関しては、かつて福島県農試内のいもち病指定試験地で活躍された松本和夫氏の興味深い考証があるのでそれを紹介しよう8),9),10)

1)いもち病の記録

いもち病の言葉が初めて記録されたのは、宮城県名取市にある広積院の記録「永禄以来当院記録年鑑、1680年(延宝8年)」である。それは延宝7年(1679)に「土用前に上田の稲にイリモチが入って不熟。」、翌8年に「田作もイリモチとて稲の葉縮み一向不熟」と書かれてあり、ここではイモチではなく、イリモチと述べられていることである。

これに次いで、1684年会津農書と同付録に、イリモチは「葉縮み、昼は強くてり、夜はわるいきれの時、葉に黒ぼし付いてかかるなり」と述べている。以上の記録は、その内容から、ともにいもち病であることに間違いない。そしてイリモチ、或はイレモチとして、江戸から明治初期まで方言として長く伝えられている。

また、百姓伝記(1681~83ころ)に「やまひつく苗は昼見よ色あかく、ほしのかたつき―――」と病斑が星、斑点を呈していると述べられ、これが「ほし」になり、明治初期にホシ、ヒトボシとして受け継がれたという。
このあと問書(1688~1704)、農業全書(1697)には、「くせ」が記載されている。これは今日では常習発生地のことで、毎年くせのようにきまって発生することを意味し、いもち病の生態の一端をのぞかせている。「いもち」という言葉は、耕稼春秋(1707)に初めてみられる。いもち病斑によって、赤褐色枯れる状態は、熱が入ったとみて、「熱」がねつねちにち、に変化し、露にちにち痛苗にち稲熱(ネチ)稲熱(イネネツ)イネネツ熱するに使われ、やがて明治初期の方言に、ねちにつアカネツハネツホネジヤケ苗ヤケヒヤケとして残っている。

農業余話(1828)には、稲熱にイネネツ、穂熱にクビイモチと訓し、首イモチの言葉が見られるという。そして病原が明らかにされてきた明治20年代後半まではいもちが使われ、漢字の稲熱病が当てられたのは明治30年以後であるという。

2)語源の推理

以上いもち病の語譜と、明治初期の方言を結びつけて、これを四つに大別した。

  1. いりもち、イレモチ。
  2. いもち、いもぢ、イモツチリ、いもて、イモリ。
  3. 熱ネツ、ねつ、につ、アカネツ、ハネツ、ホネジ、ヤケ、苗ヤケ、ヒヤケ、ナエノモエ。
  4. クセ、ハクセである。

1~3は「熱」の言葉を含む点で同じ語源を持つもので、それは「入熱」が変化したものであろうと推察した。熱がなまったとされる「にち」「ねち」は耕稼春秋の「にち入」として最初に出てくるが、それは「熱入」が語源と推察する。漢字表記時代であるので、入熱と書かれ、いりもちとなり、熱入はにち入にちねちになった。ねつねちにちはイネの熱病ということで、稲熱の文字が当てられ、ニテ、イネネツと読まれ、明治30年代に稲熱病とかき、イモチ病と読むに至ったと考察した。

明治初期の方言も江戸時代からの流れとしてとらえているが、それを要約すると、

  1. いりもち→入もち→いりもち→イレモチ(秋田、宮城、福島)。
  2. ほし→黒ぼし→ほし→ホシ(岩手)。
  3. くせ→クセ(岩手、宮城ほか多数)、ハクセ(愛媛)、ナエクセ(栃木)。
  4. いもち→秋いもち→首いもち→いもぢ→冷いもぢ→こえいもぢ→いもち(北海道ほか多数)、いもぢ(福島、愛知)、ナエイモチ(静岡)、イモツチリ(静岡)、いもて(群馬)、いもり(愛知)。
  5. にち入(露にち)→熱(入り)→にち痛→稲熱→ねち→ネチ→にち→稲熱→穂熱→ねつ→ねち(富山、石川)、アカネツ(石川)、ハネツ(福井)、につ(石川)、熱(富山、石川など)、ホネジ(愛媛)等である。

●参考文献

  • 8)松本和夫 農薬グラフ 81(1982)
  • 9)松本和夫 農薬グラフ 84(1982)
  • 10)松本和夫 植物防疫 37.1(1983)

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